昭和44年7月23日 朝
御理解第88節「昔から、親が鏡を持たして嫁入りをさせるのは、顔をきれいにするばかりではない。心につらい悲しいと思う時、鏡を立て、悪い顔を人に見せぬようにして家を治めよということである。」
親心、これは昔気質の親心ということになりましょうかね。今頃はそうでもないようですね。気に入らんことがあったら(??)さっさと出てこんのちごたる風に言うて(?)親もあるぐらいですからね。
その方がむしろ本当に合理的かもわかりませんよね。あんまり、自分の、いわば家風が合わない。嫁をとった方が( ? )嫁さんの方が自分にはどうも合わない。気に入らんことがあったら、もうさっさと出てこんの。というような親心もあるんですけれどね。だから、昔気質の親の心でしょうね。
ですから、これは私はもう、親の心というのはその時その時の、やはり一つの時代の流れといったようなものが、今の若い方達の気持ちが、私どもで解せられないことがあるようにですね。段々そのような風に変わって行くと思うんです。
ですから、ここはやはりあの、親の心ではなくてね、この88節はどうしてもやはり、神様の心だとこう思うんですね。神様の心だと。本当のことを分かっておいでられる神様。縁あって貰われた以上、やはりそこに、そうした家と結ばれなければならない理由があって、そこは赤と白程に違うてもです、そこんところを有り難く頂いて行くという、そこから良いものが生まれて来るのぞと言うのですから、これはもう親の心ではなくてね、だから昔気質の親ならそうかもしれませんけれども、現代風に、その結婚のことでも簡単に考えますとですね。
簡単にというか、まぁ、合理的な考え方とでも申しましょうかね。性に合わんなら、もうさっさと出てこいと。というようなそれではなくて、結局自分を見る、自分を見極める、徳分というものは、決して例えば夫婦になったら、なったのをですね、神様がまとめて下さったのですから、例え合わんようであっても、合うておるからこそ神様が一緒にしなさったんだと。
神様はそういうところを、いうならば、主人がひょっとこに見えるようになったら、自分自身がおたふくさんであることを悟れとこう仰っておられます。自分なキレイで、主人だけはひょっとに見える、そういうことのあろうはずはなかて。徳分というのは同じだ。
主人がひょっとこに見えだしたら、自分がおたふくであることを忘れて行きよる時だと。ひょっとことおたふくでちょうど良いのであるという、そこから、いよいよ良いものを生み出していこうという、だから、そういう考え方は本当の事を分かった人の生き方なんです。
いうなら、だから神様がそういう、いうなら鏡をもたせてやって下さるんだと。まぁ88節の、今日の御理解をまぁ、こんなところに致しましてですね、私はこの88節の最後にございます「悪い顔を人に見せぬようにして家を治めよということである」ということですね。ここんところを私はあの、悪い顔を人に見せぬようにしてということは、私はあんまり良すぎる顔も見せてはならないということです。今日はそのところを一つ、聞いて頂こうと思うんです。
人間、気分の良い時には誰だって、やっぱりニコニコしてますね。勿論明るく、より明るく、よりにこやかにと頂いておるのでございますから、より明るく、よりにこやかにであることは有り難いのです。けれどもですね、なんと言うでしょうかね、もう自分より上はない、そんな顔をしておる時があるですね。
又は、調子が良いとですね、もう自分な出来上がったような顔をしておるですね。いわゆる悪い顔の反対です。私はだから、ここではどうでもね、良いとか悪いとかというのではなくてです、お互いいつも有り難い顔をしときたいと思うのです。ね、いつも有り難そうにしちゃる。
昨日、末永さんがここにやってきてから言うんですよ。親先生、あなたがあのヒゲをあたられてからここへ座っておられると、もう生神様のごたるですっちいう。そんなら、そりゃ毎日、ヒゲをいっちょ当たらないかんのち言うたことでしたけれどね。
ヒゲをあたっておらなれば生神様の用に見えないということは、可笑しいですね。本当に生神様なら、ヒゲを伸ばしてござったっちゃ生神様のごと見えないかん、ほんなもんなら。ならいっちょ、毎日今からヒゲをいっちょ剃ろうかなちうてから、言ったことです。
三代金光様なんか、もう本当にあのヒゲをおつみになる、お剃りになる暇がおありにならんのだろうかと思うように、時々はヒゲをこんなに伸ばしておられる時があったんです。それでもやっぱり、生神様に拝めたんですもんね。
お互い、一つそこんところをですね、本当に一つ信心をさせて頂くのでございますからね。一つ有り難い顔、しかもそれは、いつでもどんな場合でも有り難そうな顔をしておる。この御理解の中にもありますように、心につらい悲しいと思う時、とこう言うておられますね。信心させて頂いて段々本当な事が分かってまいりますと、心に辛い悲しいと思う時でもです、ご神意がわかれば分かる程、神様がこのようにして私を鍛うて下さるんだと。このようにして分からせて下さるんだと思うと、つい有り難うなってくる。
苦しいけれども、そこから有り難涙がこぼれてくる訳なんですよね。商売が繁盛する。店がキレイになる。はー、良か家や店が出来たといたしましょうか。そすともうそこにですね、このなれといったようなその思いが、そういう風に顔にあらわれて来るようになる。私もやっぱ苦労したけれども、こういうものを、立派なお店を持つことが出来た。このくらい儲けだした。そして、得々としてそのご心眼を人に話して聞かせる。
そういう時には、本当にあの得意であるという事。いわば、得々とした顔とか、得意になっておる時の顔というのは、見る人が見るとやっぱり、もう慢心でしょうね。ですから、普請が出来たら、あっちの主人がころっと亡くならっしゃった。
もう、これでこと足りたというような、私は考え方があるからだと思うんです。といったようなことにすら成りかねない。でなかっても、そこに、せっかくあげんして出来たけれどね、二代目あの人じゃとてももう後は支えはきるまい、というような息子が出来る。また事実、親先生が持っておっただけの力がないから、やはり自分の力量なりに減らしてしまう。または、なくしてしまうと言ったような例は沢山ございますでしょうが。
だから私どもはおかげを受けて、ここでは、心につらい悲しい時という、私どもが本当に笑いが止まらんというようにです、おかげを受けておる時にその笑いがより明るく、よりにこやかな笑いであるならば良いけれどもです、もうことなれる、自分はもう出来たといったようなです、人を見下げるようなおかげを頂いた後のところが大事なんです。
先日の日曜の、特別報酬委員の方たちの御祈念の後の御理解でした。ご心眼に頂きますのが、少し坂道が、広いキレイな坂道なんです。坂道がずーとこう私の心願に映じましたですけれどね。その道がこうカーブしておる。カーブしておるから、そこから先は分からんでしょうが、道が有るかないか。カーブ、曲がり角ですから。それで、私はその道をずーと曲がり角のとこ行ったらもうそこが一番高い頂点であった。して下をこう見たところが、本当に下をみらなければならん程にそれから、急な坂になっておるというお知らせであった。
その曲がり角から向こうが。しかもそこが、お装束をつけた人が一生懸命かずらにしがみつきながらそこを登って来ておられるというようなご心眼だった。その時、幾人の方たちかがちょうど、もう本当に広大なおかげを頂いてというお届けがあったんです。その時にあの、美登里会の方たちの中。高芝さん。それから誰だったかしら。
本当におかげを頂いて勿体無いことですね。本当に勿体無いことやんね、神様の本当にもう、あーして色んなところ、様々なところを通らせて頂いたようにあるけれども、みんながおかげじゃったですもんね。きつかった、きつかったけれども本当にあれもみんなおかげじゃったねというのはです、いわゆるこちらの広い、まぁ広いというか、まぁなんとはなしに、つま坂の山の道を登ったようなものである。
けれどもね、その事を神様がお取次ぎ下さって、神様がいわゆる金光大神様が、又は、天地の親神様がその氏子の願いを叶えてやりたいと思うてしござる修行というものは、とてもとてもこちらの比ではないと。それこそお装束をつけられた方がかずらにすがって、一生懸命登っておられる。そしてこの、曲がり角というか、頂点であった時におかげを受けたということになった。
ですから、私どもはどんなに辛いでも悲しいでも、どういう苦しい時でも、神様苦しゅうございます。けれどもね、神様にはもっともっと苦しい思いを、悲しい思いをさせておるんだと分かるから、神様あいすみませんと苦しかっても、有り難涙がこぼれてくるとですよ。勿体無い涙がこぼれてくるですよ。
神様は、はーやりよるやりよるちいうてから、高みの見物しござるとじゃない。氏子の苦しみは神の苦しみとしてです。もうそれこそ大変な道を大変な修行をして下さってある。私どもおかげを頂いて、本当に長い間こうこうこうであった。成る程色んなところ通らせて頂いたことは頂いたけれどもね、やはりこういうおかげを頂くためじゃったねという事になる。
けれども、神様はそれ以上のいわば、苦労苦心をしておって下さるんだと。そういうようなお知らせ。ちょうどその時に、土居の久冨さんが一緒にお参りでした。久冨國雄さん。先生最近続けてお夢を頂きますと。どういうお夢かというと、その瓜畑、または、この瓜、お野菜の瓜。瓜をお夢の中に頂きます。しかも、その瓜がね、瓜と思いよったら段々それがスイカに変わっていくというようなお知らせでございますとこう言われる。
もう以前の、昔の御理解の中に、「高い山から谷底見れば、瓜や茄子の花盛り」といったような御理解を頂いた事がある。ね、瓜やという、瓜や茄子と。信心をしておる人達の姿、またはしてない者の姿と。茄子の花盛りというのは、信心を頂いて心に安らぎ、安心を持っておる人たちの姿ということであろう。
または、信心はなかってもあっても、そこはそうでしょうけれども、かと思うとそのまた反面にはです、それこそ長年住み慣れた家を売家と書かなければならない程しの売家も沢山ある。それを高い、高度なところから見ておる。それがよう分かるというお知らせ。「高い山から谷底見れば、瓜や茄子の花盛り」だと。
瓜のお知らせを頂いた時には、家も売らねばならんほどしの時ということなんです。家も屋敷も、そのために売払ってしもうたというような一生懸命の難儀なところを通っておる時ということなんです。私はそれを頂いて、久冨さんおかげ頂いておるですね、て私がいうたことでした。
あなた達がもし、信心がなかったら、今頃は、もう本当に家も屋敷も畑も売り払うておらなければならないような事になっておったんでしょう。けれども神様は、それをね、それを修行に切り替えて下さった。スイカに切り替えて下さった。ここにきが分からんとのや、信心しよってどうしてこげな難儀な事が起こるじゃろうかと思う。神様からお知らせ頂いたら、初めてそこが分かる。
こういう結果にならなければならんのを、売家にならなければならんのを、スイカに代えて下さったと、してみると現在の修行は有り難うしてこたえんちいう修行でなからにゃいかんですたいねていうた事なんです。スイカという事は、大変な修行という意味でしょう。スイカもいとわないという程しの修行なんです。スイカというのは、水や火という意味でしょう。
水の行、火の行でもいといませんという程しの修行させて頂いておる時ということでしょう。ですからね、私どもが本当に自分達の運命といったようなものが、自分でよく分からないもんですから、例えば無い命を助けて頂いておるといったような事は、大変な事なんですよね。けれども、おかげを頂いておるとそれは、もうまぁ有り難いことは有り難いばってん、そげんまでは思わん。
昨日、吉井の熊谷さんが、昨日の朝の御理解をテープで頂かれてから、もう本当に頂けば頂く程、本当にこういう気になれば…。先日、久留米の佐田さんのところに共励会に参加させて頂いた。もう帰りがおそなったから、ここの前を通る時に、もうこれこそここの前を通る時に、下車しない事はないのですけれども、その日はご無礼していった。まぁ一事が万事そういう事があるんだと。お互い信心させて頂きよっても。
ここは、こうすることが本当だけれども、忙しゅうございますから、こうでございますからということがあるでしょうが。そういう意味の事を言われる訳なんです。こうすることが本当ですけれども、ここんところがこうという時があるんだけれども、今朝の御理解を頂かせて頂きよりまして、最後に昨日は、信心の心得ということでしたね。そのような心得の心を頂かせて頂くと同時にです、最後に金光様のご信心を頂くものの本当の姿勢というか、心得というものは、あの立教神伝から頂けということであったんです。それこそ、初めてのことであった。
あの立教神伝というのは、あの立教神伝が下って初めて金光教という信心が生まれたんですから、あれは大事な、いわゆる御教として頂いております。そういう意味では頂いておりますけれども、あれをそのまま、そのまではなくて、あれを雛形にでもです、私ども信心させて頂く者の心得とし、また、心がけとし、信心させて頂く者の姿勢にしなければならないということを昨日は説かれてありましたですね。最後にあの立教神伝、あの立教神伝を繰り返し繰り返し読ませて頂いて、あの中、例えば昨日、久冨茂雄さんの奥さんが参ってきておりましたが、もう涙を流さんばかりに、ここでお詫びをされたんです。
もう、お父さんあなたばっかりは、合楽合楽ちいうてからと言うて、もうまぁ嫌にきことを申しましたというのです。本当に今日の(?)のように私が後家になったと思えばと言うことです。これから心(?)頂きますというて、お届けがございました。
姿勢が、一家中の者が信心を進めて行く姿勢。熊谷さんは、あの立教神伝の中からですね。死んだと思うて欲を放し…先生もう死んだと思えば、どげなこってん出来んことは無いことをです、こんな事を分からせて頂いたというて昨日お届けをしておられます。
立教神伝の中から、信心させて頂く者の心得、心がけというのを、忙しいのなんのと言うておるけれども、神様はこげん忙しかとはご承知じゃからと。
昨日は、家内が不思議がっておりますもん。今日は高橋の兄ちゃまはどうしてこげんゆっくりしちゃるとですかって私に言いますもん。なしやち言うて、そりゃ御用が残っとるけんくさいち、そげんいうたら、昨日はあなたもう野球の、最高の野球がある時でですね、なんかオールスター戦かなにかていうのがあって、とにかく弁当の注文だけは4500からあった。それで、もう(?)言うに及ばず、親戚の者まで借り出してから、うちでは、もうそれこそ前の晩から一睡もせんでごったがえしよるところ。そりゃ、朝参ってきて、また昼参ってきてて、昼から御用、そしてちょうど4時の御祈念までおられた。
どう、それけ、それを家内が知っておりますから、どうしてあげんゆっくりしちゃるですかち。ゆっくりしちゃるとじゃ、お前御用がありよるけんくさい。そこにはもう言うならば、死んだと思うて、欲を放してという事があるのじゃなかろうかと、私は思いました。同時に信心ということはですね、信心頂いておりゃ素晴らしい、皆がそりゃ素晴らしいちいうばってんですね、信心頂いたらそんくらいなことは平気で出来るようにならないかんとですよ。
御用もなかつに、ここにいつまででん、ぐずぐずしておるというとじゃないですけんね。もう、うちは忙しいけんで、ほんなら自分も仕事せにゃんけん、もうここにおった方が楽ちいうごたる風なもんじゃないとですからね。いわゆる、死んだとお思うて欲を放して、いわゆる今朝の信心を、じを持って、私は遂行されたんだと私は思うです。
ね、教えを行ずるというこは、そういうことなんです。それを私どもがですね、もう時間が遅うございますからとか、どうですかねとか、あぁですかと自分勝手な理屈をつけて、本当な事をしようとしない。
私は、昨日昨夜の、御祈念の後の御理解にも皆さんに聞いてもらったんですけれども、本当に合楽はおかげを受けておるなということですよ。そう私は思わんでもないんですけど、時々思う事もあるけれどもです、昨日の昨夜の御理解を頂きよって、おかげを頂いておるなぁと思う事があるんです。
昨日も、例えば朝の御祈念を頂き、御理解を頂かれた。昨日の昼の御祈念、そこの(?)板に掲示してありますようなね。「神徳を科学する」ですかね、信心を教学する。いわゆるご神徳というものでもです、科学的に分析して、しかもそれを自分、その神徳を受ける事が出来るという、いわば、大変な御理解だったんですよね。
もう、今の教団でも、神徳派と又は、教学派とがいつもこう喧嘩しとるような感じでしょうが。そして、なにか神徳型の人を非常にくさす。教学派の人の事を非常にくさす。といったような傾向にあるんですけれども、本当の教学というのは、いわゆる生きた心というのをね、生きた天地を生きた心で、その教学に取り組んだらですね、教学からもじゃなくて、教学から頂いた神徳ならもう鬼に金棒、絶対なものなんです。
そういう意味で教祖様は、教学の大家でおありになったというような、御教だったでしょう。そういう意味で、合楽の場合なんかはもう、徹頭徹尾、教学化したものでしょう。まだご神徳という私どもな頂いておらんけれどもです、私はこれを、私が頂いていく、皆さんが頂いておいでられたら、必ず神徳に触れると思うです。
もう、神徳といったような、まぁ先日のあるお道の雑誌にも書いてあったように、神徳といったような、お前が理屈をいうな、黙ってついてこいといったような事でなからなければ、神徳は頂けんように思うておった。ところがここでは、もう噛んで含めるように教えられて、何故そこんところを全部解明して、そして、こういう生き方になって、神徳が受けられるんだと言うことを説いておるでしょうが。
ですから、そういう教学を身につけながら、神徳を受けて行くということは、これはもう絶対なものなんです。鬼に金棒なんです。そこには頭だけでするのじゃない、それには、昨日の御理解の中にもありますように、たえまざるところのやはり、訓練ですね。たえまざるところの修練というものが、勿論それは伴うものです。
頭で勉強した事が実証する、五体で実証する。それがなされなければ駄目だと言うことなんですね。そういう例えばです、こういう素晴らしい御理解を合楽では頂いておるがです、これを道の人たちが、これを分からんということはです、まだ合楽は間違うておるとかね、合楽の信心を軽視しておるという人達に見せてやりたいとこういう訳なんです。
ところが、いくら見せてやっても、見る目が無かったら今の合楽の信心は分からん。なら、分からんところがおかげ、合楽のためにはおかげだという事なんです。
はー、もう合楽は素晴らしい、なるほどあのようなお宮が建立されるのも当たり前。内容があのように素晴らしいんだからと言う風に認められるようになったら、もう合楽はおしまいです。私はそう思うです。ですから、本当に分かって下さい、分かって下さいと宣伝すること何もいらんです。分かる者が分かっていけばいいんだと。いや、ここの合楽におかげを頂いておる、その中心の者だけが間違い無いんだ、有り難いんだ、ということを分かっていけばそれで良いんだと。
"咲くまでは草と呼ばれる野菊かな"ね、"咲くまでは草と呼ばれる野菊かな"雑草の中にはいておるところの、いわばそれは菊の花であってもです、やはり花が咲かなければです、野菊でも菊でも雑草に見られるというわけなんです。
そういう意味でなら、合楽はまだ一つも咲いていない。まだ雑草にしか見られていないということなんです。ね、全国から、まぁいうならば。ただ心ある人達が関心をもち始めた事だけは事実です。けどもまだ、雑草の中にある。ただ、私だけは、いわゆる皆さんだけは立派な、間違いのない菊の花だと信じておれば、それで良いのです。
そして、まだ咲かない時に、の方が良いのです。ですから、これは皆さんの信心においてもそうです、まぁ主人がついて来ません、子供が着いてきませんと。もう一家中が、こぞって信心になることを願っておるけれども、まぁそれが願いが成就してない時の方がまだおかげだということなんです。
勿論その願いというものがですよね、段々大きくなってまいりますから、早くまた、なら一家中が勢を揃えた信心にならせてもろうて、そしててまた次の大きな願いがなされなければならんことは勿論。ですから、結局は願いを大きく持たなければならない。先生こんな立派な御神前、お広前が出来て、建立されて、本当にご安心ですねとか、おめでたいですねとか、成る程めでたいことはめでたいけれどもです、まだまだもう、ほんなこてここはずーとまだ久大線にきまでは、まだ広げて行かれるです。
これでおかげを頂いたとは一つも思ってないです。神様の働きからすれば、まだまだ、まだ言うならば雑草の中にある、いわば雑草と紛うばかりの私どもであるという事が有り難いのだ。本当に合楽が咲いた時には、まだそんなもんじゃないんだというような大きな願いというものを、私を始め皆さんも持って頂かなければならんのですね、ですから。
そこでです、今日のなら御理解にまた戻りますとです、こうして、お広前が建立されたからというて私が良い顔どもしておったんじゃつまらん。勿論、出来たからち悲しい顔はしませんよ。腹の立つ顔もしません。というて、例えばなら、他のところをこう、軽く見るようなものではなくてです、ただ神様のご都合なんだから。
まぁ私ぐらいな者の信心で、これは出来たということは、むしろ勿体無い事であるけれどもです、神様のお働きをもってするならば、このくらいなことではないという思いというものはいつもありますから、私は高ぶらんで済む、慢心を起さんで済むのです。
いつも、教えの鏡というものを見せて頂いて、それこそ末永さんじゃないけれども、本当に自分の心の状態、人相というものが生神様のようになれておるという事をです、目指しての信心。
まだまだしてみると、大変な事だということを思いますけれども、そこに私は希望が、そこに私は、ね、悪い顔もいわば良すぎるような顔も、見せんで済むおかげが頂けれる。そこから家がおさめられ、自分の心がおさめられる。教会がおさめられる。といったようなおかげを頂いていかなければならんという風に思うのです。
今日はどうぞ皆さん、一つ良すぎる顔もここでは、悲しい顔とかね、辛い顔というようなものを見せんために鏡があるように言うておられますけれども、自分がもう鼻高々と、自分がこうしたらからこう出来たと、こうなったと言ったような、高慢ちきな顔になっておらんか。それを見るためにも、教えがあるということを今日は皆さんにも聞いて頂きましたですね。どうぞ。